(2)第二次世界大戦−激動の時代と大和売薬の消長
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・第二次世界大戦の勃発 |
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【写真11】 戦時色の濃い新聞広告 クリックすると拡大図と解説が表示されます |
1929年に始まった世界恐慌の影響 で、日本の経済も深刻な不景気にお ちいりました。その打開策としての意 味もあり、日本は軍国化の道を歩む ことになったのです。 その動きは満州事変(1931)から 日中戦争(1937〜45)へと発展し、 日本と中国は全面戦争に突入しまし た。 この事態を重く見たアメリカ・イギリ ス・オランダなどは、日本に経済制裁 を加えてその動きを封じようとしまし た。日本もそれに対抗してドイツ・イ タリアと三国同盟を結び、やがて第 二次世界大戦が勃発、日本国民は 長く苦しい戦時下の生活を強いられ ることになりました。 |
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【写真12】戦時下の企業整備を物語るクスリ クリックすると拡大図と解説が表示されます |
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・戦時下の企業統制 |
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昭和12年、日中戦争の勃発により、 軍のために多量の医薬品が必要に なりました。政府は、限られた資源 を管理するため、原料の統制を開始 したのです。 翌昭和13年には国家総動員法が 制定され、戦時下における統制が 強化されて、薬の原料も配給制とな りました。 |
【写真13】「大和共同製薬株式会社」時代の三光丸 クリックすると拡大図と解説が表示されます |
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昭和16年(1941)、日本は米英に対して宣戦を布告し、太平洋戦争に突 入します。以後、政府は戦争経済を維持するため、物資生産、配給を合理 化、効率化すべく企業整備を行なう方針を固め、売薬業界もそれに従わざ るを得ませんでした。 結局、奈良県では昭和18年に、法人営業15社、個人営業838人の売薬 営業者(製造者)を、主に地域別にまとめて10社に統合しました。三光丸 本店も、そのうちのひとつである「大和共同製薬株式会社」(取締役社長: 安田寅吉 専務取締役:米田徳七郎)に統合されることとなったのです。 また、昭和19年に入り、国家総動員法にもとづく統制会社令によって、 「売薬」は「家庭薬」という名称になったのでした。したがって、「大和の配置 売薬」は、正式には「大和の配置家庭薬」というのが正式な名称ということ になります。 *本稿では、歴史的な流れも考慮し、あえて「配置売薬」という名称で統一しています。 |
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・終戦−企業再編成へ |
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昭和20年(1945)、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終 結しました。5年間にわたる大戦で、日本の国土は荒れ果て、国民も疲れ きっていましたが、その後、驚異的な速さで戦後の復興をとげていきます。 戦後の日本経済は、GHQ(連合軍総司令部)が主導して、農地改革・財 閥解体・労働改革といった、いわゆる経済民主化政策が進められていきま した。 配置売薬業界では、配給統制や戦乱による原料の不足、労働力の減少、 物価の混乱など問題は山積していましたが、薬の必要性は高まるばかり でした。 そんな中、早くも企業を再編成する動きが高まり、翌昭和21年から具体 化していきました。奈良県では当初、統合されていた10社を再編成するの に、最高35社まで認めるということで厚生省から指導を受けていましたが、 業者側がこれに反発、話し合いの結果、昭和22年に48の企業に再編成さ れました(翌年には51社となる)。このとき、三光丸本店も「株式会社三光 丸本店」として生まれ変わりますが、その後暫くは、戦後の混乱や民主化 の激しい動きの中で、まさに大海の荒波にさらされ、苦難の道を歩むこと になりました。 |
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(1)明海外雄飛のとき−三大和売薬の発展 (2)第二次世界大戦-激動の時代と大和売薬