(2)大正〜昭和初期の大和売薬

・売薬法の制定

大正3年(1914)3月、それまでの「無効無害主義」から「有効無害主義」へ

の政策転換の結果、新たに売薬法が制定されました。これにより、それまで

の売薬に対する迷信的なイメージは刷新されましたが、同時に科学的合理

性を持つ必要性が生じました。具体的には、製薬業者は「薬剤師・薬剤師を

使用する者又は医師に非(あら)ざれば売薬を調整して販売することを得ず」

と規定され、「毒薬・劇薬及び其の性状又は配伍(配合)結果により危害を生

ずる」おそれのある薬品は原則として禁止されたのでした。しかしこのこと

は、むしろ不正業者をなくし、業界の近代化のためには歓迎すべき措置でも

ありました。

・売薬印紙税の廃止

政府の過酷な課税政策に対し、全国の売薬業者は力を合わせて廃止運動

を展開していました。奈良県においても、米田徳七郎を組長とする「大和売

薬同業組合」などが中心となり、県下の同業者をまとめるだけでなく、当時最

大の競合相手であった富山県の業者団体と手を結び、国会の各党派の代議

士に対し、陳情と説明をくり返しました。

  やがて、こうした努力が実を結び、大正15年(1926)に売薬印紙税の廃止

が決定されました。制定後実に44年目のことです。

  このことは、とりもなおさず売薬が「無効無害」ではなく、「有効無害」である

と正式に認められたことにもつながり、売薬販売の希望者も増加したというこ

とです。

・海外市場の獲得

 

【写真7】解熱二光丸 

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売薬を海外に拡げる動きは明治後半期からは

じまり、大正時代前半期には、朝鮮半島、東南

アジア諸国、ハワイなどに進出していました。

明治43年(1910)に朝鮮総督府(初代総督は

伊藤博文)がおかれると、三光丸も朝鮮半島へ

の販路拡大を目指し、大正2年からは木浦(モ

ッポ)・釜山(プサン)・京城(ソウル)・仁川(イ

ンチョン)などにおいて販売を開始します

【表1】大正2年〜昭和14年の三光丸生産高

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やがて昭和7年(1932)に満州国が成立すると、三光丸は満州国および関東

州(大連、旅順などを中心とする遼寧半島先端の地域)へも進出、中国と朝

鮮半島の情勢が悪化する昭和14年までの間、営業活動を行いました。ま

た、大正期よりスマトラ・ニューギニア・ジャワ・セレベスにおいても販路を拡

げ、大正8年には、インドへの進出も計画したことを示す資料が残っています

が、その詳細は不明です。

 

(1)明治時代の大和売薬 (明治新政府の方針売薬印紙税農閑期の余剰労力の利用) (2)大正〜昭和の大和売薬